昨年フランスのマクロン大統領が燃料税を引き上げたため、ジレ・ジョーヌ(黄色いベスト)運動が起こって、フランスは大変です。税金を上げたがために大変なことになるということは、さかのぼること660年、英仏100年戦争の真っ只中でもありました。1356年ポワティエの戦いで、フランス王ジャン2世はイングランド軍と激突し、フランス軍は大敗しジャン2世は捕虜になりました。ジャン2世には、周囲を弓兵で囲まれているのに、足場の悪い地をただ重装騎馬兵で突撃するだけの作戦しかないのですから、敗戦も当然です。結局ジャン2世は釈放してもらうために、アキテーヌ地方を中心として、ブルーターニュやアンジューなどをイングランドに引き渡し、また300万エキュの身代金を払うことになりました。この時、後を継いでいたシャルル5世は領地が減り、かつ身代金を払うお金もありませんから破産状態に近い状態です。それで身代金の人質になった弟ルイに逃亡を促し、ジャン2世にロンドンに戻ってもらいました。しかし、財政難が解消されたわけではありません。そこで、シャルル5世は、かまどの数に応じて税金をとろうとしました。しかし、貧乏人でもかまどは最低1世帯に一つはあり、金持ちだからと言って100も200もかまどがあるわけではありません。当然庶民の不満は大きくシャルル5世はその実施に苦労しました。こういうときはフランス人ですからワインでも飲んでと言う気分ですが、ワインの生産地アキテーヌ地方はイングランドの領地です。仕方なくリンゴ酒でも飲んで憂さを晴らしたのではないでしょうか。
1822年、13歳のジョージ・バランタインはエディンバラで食料品とワイン、ウイスキー類を扱う商人アンドリュー・ハンターのもとに年期奉公の修行に出ました。 ジョージが奉公修行に出た翌年、ウイスキー蒸留認可制度により、密造時代は終焉を迎え、1824年には新しく認可を受けた蒸留所が次々と誕生していきます。1827年、ジョージ・バランタインは徒弟奉公を終え、エディンバラのカウゲートに小さな食料品店を開きました。その4年後、23歳のジョージはカウゲートからほど近いキャンドルメーカーズ・ロウに店を移しました。さらにその5年後、由緒あるサウス・ブリッジに店を構え、そこではジョージが得意とする顧客である貴族や上流階級の人が高級ウイスキーや食料品を買い求めました。1853年、エディンバラでウイスキー商を営むアンドリュー・アッシャーが、熟成期間の異なるさまざまなモルトウイスキーを混ぜ合わせたヴァッテド・モルトウイスキーを製造しました。アッシャーの友人であったジョージ・バランタインは、この発見と彼の苦心談に閃き、グレーンウイスキーとモルトウイスキーを混ぜ合わせブレンドの技術を磨き始めました。ジョージ・バランタインは長男であるアーチボルトに商売を任せ、ウイスキーのブレンディングに打ち込むためにグラスゴーへ移り住みました。1895年、ジョージ・バランタインから商売を引き継いだアーチボルトは、エディンバラきっての目抜き通りプリンシズ・ストリートに店を開きました。その同じ年、グラスゴーではジョージ2世が父親から事業を引き継ぎ、偉大な快挙を成し遂げた。ヴィクトリア女王がグラスゴーを訪れ、バランタイン社に王室御用達の称号を授与したのです。さて、バランタイン17年はマスターブレンダーのジョージ・ロバートソンによって生み出されました。時は1937年、ジョージ・バランタインがこの世を去って約50年の月日が経とうとしていました。今から約80年前につくられたバランタイン17年の極秘レシピは、現在に至るまでほとんど変わっていない。バランタイン17年は、スコットランド各地から厳選されたモルト原酒を使い、そのなめらかさと優雅さによって人気を博していきました。酒齢17年以上の長期熟成原酒が織りなす奥行きの深い気品ある香りと繊細で複雑な味わいを是非ご堪能下さい。
更新日時 : 2018年12月21日
カテゴリ : 世界のお酒
ワイルドターキーのラインナップのひとつである、ワイルドターキーライは、実は私のバーボンの中での最もお気に入りです。本来バーボンは、51%~80%のトウモロコシであることが条件ですが、そのほかライ麦、小麦、大麦を原料としています。ライウイスキーの場合は、ライ麦比率が51%以上あります。ワイルドターキーライは、4~5年熟成の原酒を使用しており、バーボンより甘さ控えめのスパイシーな味わいが特長です。私は、本音を言うとトウモロコシ臭が若干苦手で、スコッチウイスキーを飲む頻度の方が高いのですが、このワイルドターキーライだとトウモロコシ臭が控えめで、お気に入りの一つになりました。スコッチ派の方でも満足いただけるバーボンウイスキーです
。
更新日時 : 2018年11月30日
カテゴリ : 世界のお酒